昭和五十六年六月二十六日 朝の御理解
御理解第二十三節 「氏子が神と仲善うする信心ぞ。神を怖れるようにすると信心にならぬ。神に近寄るようにせよ。」
先日、関さん所の宅祭の時に栄四郎の運転であちらへまいりましたが、栄四郎があのう車の中で申しますのに、親先生僕はこの頃運転を親先生を乗せて運転をするのが怖くなりましたとこう言う。もう事故はあの人一人でやって何か自動車を壊したりするのは、それだけ運転が雑だったんです。ところが古川があんなにして病気致しましたもんですから、栄四郎が承っておる訳です。そりゃ有り難い事だねと言うて聞いた事ですけれども、それだけ慎重になったと言う事でしょうね。信心もそうです。ここでは神と仲善うする信心ぞと仰せられる。本当に神と仲善うなるという事は、私は素晴らしい事だと思うんです。毎日お参りしよるから神様と仲善いという事じゃないね。神様と仲善うなったら、神様がねいうならば可愛がって下さる。信心は例えば出来ん。
昨日、一昨日の御理解でしたかね、夢の万華鏡という事を私が頂いた話を致しましたね。昨日、川上さんがあの事を聞いて、テレビで確かにそのコマーシャルやってるそうです。それにはその先に、シルクロードという台詞があるそうですね。勿論シルクロードとは大変な難儀な道とされておりますけれども、それは絹のような柔らかい道とあるそうですね意味は。だからどういう険しい例えば、そんな道であっても、普通では通れないような道であっても、それが柔らかく絹のような柔らかさで通れる手立て。そういう道がお徳を受けなきゃならない。なら、私がシルクロード、その事のお知らせを頂いた時にこげな極楽があるだろうか、こんなに必要な物が必要に応じて与えて下さるそういう喜び、そういう有り難さを神様にお礼を申させて頂いておったら、今の夢の万華鏡という事を頂いた。
あれは、字引でひきますと鏡を重ねてそれをこう廻すといろいろな花がこう、いわゆる千変万化と申しますか、そういう花がきれいに見える鏡をいうんですけれども、私がそれを頂いたのは、私共が人間の幸せの条件、あれがいる。熱い物がいると思えば熱い物となって現れてくる。冷たい物が欲しいなあと思うたら、その熱いのが冷たい物に変わっておるというような意味に於いて私は頂いたんです。それで私がそういう徳を受けておるかと言うのではなくて、神様と仲善うする信心が出けておるのじゃないかと思う。ね、例えばお徳は受けていない、信心は出けていないのだけれども、信心が出けたかのように、しかもお徳を受けておるもののようにして、おかげをくださっておるのが、私に対する神様であり、合楽の御比礼でもあると思うです。
ですから、先ずは神様と仲善うする信心のその根底になるものね、根本になるもの、それは神様のお心が分かり、神様のお心に添い奉る完璧な事は出けんにしても、お心が分かってお心に添い奉ろうとする精進だと思うのです。昨日、教主様のお歌を例に申しましたですね。不平不足を言うと、又は人を非難するというお歌には、プラス面の事は言わず、マイナス面の事だけを取り上げて人を責めおるというお歌でしたよね。どういう事にでも、プラスがあるなら必ずマイナスがある。マイナスがあるならプラスがあるのだと、その事は昨日細かにこういうような事という話を致しましたね。まぜくられたようでも、それはちょうど、お抹茶を点てる時のようなものであって、よい味わいを頂く事の為にいかにもマイナスのように見えとるけれどもマイナスではないんだ、お礼を言わねばならない事だね。プラス面だけは言わず、マイナス面だけを言うて責めるじゃあなくて、そのマイナス面と思うておった事も神愛であった、神様のおかげであった、働きであったと分かるという事。私はそこが分かるという事がね、神様のお心が分かるという事だと思う。だからそのお心に添い奉ろうと精進しておるから、出けないけれども出来たかのようにしておかげを下さる。先ずはそこの所の限定、限定というか根本的な、言うならば見方、物の考え方が出けなければならない。
その過程に於いてですね。信心が分かってくればくる程、これは昔頂いた御教えの中に、神様は有り難いお方じゃなあと分かると同時に、神様は恐いお方じゃなと分かるような信心とおっしゃる。ね、神様を神様と言うならば頂かない、それが知っておってそれが出けないといったような場合なんかに体験するのが、恐いおかたじゃなあとこう、その向こうに私は神と仲善うする信心があると思うです。栄四郎が自動車運転しながら、今迄はもうそれこそあの何というですか、スリルを感じる事すらが面白い。スピード出して走って、そして接触事故を起こしたり、いろいろの事故を起こしていた時には恐いと思わなかったけれども、楽しいもんだと思うておったけれども、此の頃、親先生のお供して親先生の車でこう運動するようになったら此の頃車が恐くなった。そりゃあいい事だ。有り難い事だなあ、それだけいうならば鄭重に、慎重に扱う事になる。神様を慎重に鄭重に、いうならば頂けるようになると、神様もいうなら息吹のようなものを感じる。ね、神様にいわばいよいよ近づかせて頂く。ね、そこにはまあいうならば、有り難い神様じゃと同時に恐いお方じゃなあという事も分かってくる。そのまあいっちょ向こうにその仲善うする信心というのはあると思うんです。
神を恐がるようにしてはならん。神に近づけとこう言われるが、その近づく手立ては神様の心が分かって、今迄不平不足を言うておったような事にでも、お礼の言えれるようなおかげ。
昨日は二十五日の研修で皆さんの発表をまあいろいろ聞かせて頂きました。最後に、文雄先生がお話しをしておりました。今日あるお得意さんの奥さんとお話しをした事ですという話をしてました。ご主人が百万からの給料をとられる何不自由の無い贅沢な生活をしておられる方だそうですけれども、いつ行っても不平であり不足であるという訳です。で貴方はもうこれだけの恵まれた生活をしておられながら、本当に心の貧乏人ですねと、私共は信心頂いとるからそうたいした事も無いけれども、心はいつも豊かでおれるという話をした。まあその奥さんもなる程というように感じられたという話をしてます。ね、確かに信心によって心が豊かになれば、豊かな物にも金にも必ず不自由しません。もうおかげは付き者です。その為には私共が不平を言うておったり不足言わんですむ程しの豊かな心を頂く事が先ず先。
その豊かな心に豊かな物にもお金にも恵まれ、それこそ夢の万華鏡と言われるようなおかげにもなってくるし、険しい道と思うておったけれども、それこそ関さん所に私何時書いてあげたかしらんけれども、山頭火という俳句の先生が居りました昔、その方の句を書いて上げて、それが床の間にこうして出してあったね。「真っすぐな道で淋しい」とある。もう本当に平穏無事でいったらさぞよかろうごたるけれども、そうではない。山坂もありゃあ、曲がりくねった所もあるのだけれども、むしろそういう事であってこそ、この道はいや人生というものは楽しいものだとまあ言うておるわけですね。真直な道で淋しい。だから信心の上にはその淋しいだけではなくて、そういう時こそ神様の心が分かる時、いよいよ力を受ける時、お徳を受ける時、一段と信心を進めていく時というふうにだんだん分かってまいり、神の心が分かってくる、神愛が分かってくる。それこそプラス面が有り難いのではない、マイナス面のように見えるけれども、それはもっと深い御神愛の中にあっての事だと、分からせてもらい悟らせてもろうて、そういう受け方をする事が、そのまま心が豊かに育っていくのじゃないでしょうか。豊かなおかげを頂きたいね。それには先ず神と仲善うする信心。仲善う信心するという前に、もう一度です、言うならば、自動車の運転が此の頃、恐くなったという慎重さが先ずはいるという事。その向こうに、言うならば自信というか、確信というか、信じて疑わない心、そこに生まれてくる安らぎ、始めて神と本当の意味に於いての仲善うする信心が頂けると思うですね。 どうぞ。